鏡開き
この日に鏡餅をおろしその餅でしる粉を煮るならわしがある。
節分
春夏秋冬の分かれめが「節分」だが、いまでは春の節分だけが行事として残っている。豆まきはもともと散米・うちまきなどと名付けられた神事儀礼が、下級の精霊たちを供養する意味で、神社などの周囲に米をまいていたものが、民間に伝授していくうちに、豆まきに変わっていったといわれている。
ひなまつり
平安のころに、上流社会の少女たちが紙の人形を使って遊んでいた゛ひな遊び″と、人形に厄を託して水に流すという中国から伝わった3月の神事が結びついたもので、今でも各地に流しびなの風習が残っているのはこのため。江戸時代に入り、今のような華やかな段飾りの゛ひな人形″を飾るようになった。
彼岸
春分・秋分には、太陽が真西に沈む。その下に浄土があり、弥陀の在所をこれによって衆生に示し往生の本願をとげさせるため仏事を営む。祖先を思い冥福を祈り家族揃ってお墓に参り、草花が多く美しいこの時期にいっぱいの花を飾り、お彼岸だんご・おはぎ、など家庭の味で仏様をもてなし、家族全員で祖先を偲ぶ。
花まつり
二千五百年前の遠く、インドに生まれた一人の王子(後のお釈迦さま)の誕生を祝うのに幼児の像を花で飾り、甘茶をそそぎかける日本の春の祭りは、ほほえましく美しい。
端午の節句
現在は、「子どもの日」として、国民の祝日になったが、5月5日は男の節句で、端午の節句のほかにあやめの節句、重五(5月5日と5が重なる為)ともいう。この日、男の子がいる家庭では、武者人形や菖蒲を飾り、鯉のぼりを立て、菖蒲酒を中央に粽と柏餅を左右に供えて、男の子の成長を祝う。
七夕
この夜には、牽牛星と織女星の二神が来臨して逢瀬を楽しみ翌日は天空に帰っていく。 その時には禊(みそぎ)をおこない、けがれを持ち去ってもらうという考え方があって、七夕竹の風習ができた。
白玉だんご
もち米で作った白玉粉を、小さく丸めてゆでたもの。夏の暑い日、冷水や氷を配して砂糖を掛けた「白玉」を好む人も多い。
お盆
農耕民族である日本人は正月にはトシの神を迎えて五穀豊穣を願うのだが、盆の時期にはすでにムギ等の畑作の収穫が終わっているので、収穫を感謝すると共に秋の稲作の結実を願っての祭りを、おこなうという日本古来のしきたりが仏教と結びついたものである。つまり正月行事と盆の行事とは、本来日本人にとっての年2回の祖霊祭なのである。
十五夜
月見の風習は中国から伝わり、平安初期頃から宮廷で8月15日(旧暦)に月見の宴を行うようになった。現在のように「だんご」を供える庶民の月見は江戸時代になってから。 「中秋の名月」を芋名月とも言うが、この芋は里芋である。稲が弥生時代に渡来する前は日本も里芋が主食で、名月に芋を供えるお月見は秋の収穫感謝祭であった。15個だんごを盛り、すすきで観賞する。
十三夜
日本古来の月祭りは、この十三夜であったが中国大陸から十五夜の月見が伝えられ中国式に宮中の公式行事になったため、十三夜のほうは、軽んじられる傾向が生じた。しかし、十五夜制定より10年おくれて、919年朝廷は「九月十三夜をもって名月の夜となす」との断を下した。こうして世界に例のない二度の月見が宮中でおこなわれるようになった。
七五三
日本人の場合、子供が七歳になるとはじめて氏子として氏神に認められるということになり「氏子入り」とよんで氏神に参拝し、神からも人間からも社会人候補になったことを承認される。それまで三歳、五歳といったような区別をつけ成長を確認していく風潮が強く、七五三詣でになった。
ことはじめ
12月13日は「ことはじめ」の日である。「こと」とは正月行事のこと。つまり正月行事のための準備を始めるのがこの日だという訳である。
おせち
正月の料理は、「おせち」という。一種の保存食で正月三が日は、これを食し、主婦の労働を休ませるという意味だと信じられているむきが多いが、じつはこれは新年にやってくると信じられているトシの神への供え物であって正月三が日にこれを食べるのは、新しい「節(セチ)」を迎えるにあたりトシの神と一緒に食べるという意味があり、だからこそ「おせち」といって大切に扱うのである。